日常の中に散らばる喜びに出合えるのが、介護の良さ

介護職員トゥリ ユリアンティ

日本行きが選択肢に加わったのは、ドラえもんがきっかけ

私が日本に関心を持ったのはドラえもんです。日本で生活していたらドラえもんに会えると思っていました(笑) 。実は姉が日本の男性と結婚し、日本で暮らしています。15年ほど前からかな。姉から「日本は素敵な場所だよ。便利だし楽しい。」と聞いていたので、EPA制度を知ったときは目から鱗でした。

EPA制度を知ったとき、アラビア圏内への看護師派遣の申請を提出したところでした。でも母親は「アラビアは遠いので辞めてほしい。」と苦言を呈していました。じゃあ日本はどうかと母に確認したところ、「姉が日本に住んでいるし、アラビアより安心。」とのことで賛成、EPA制度への申込をすることに踏み切りました。

早く日本に行きたい!軽い気持ちで看護師ではなく介護士に

EPA制度は看護師と介護士の枠があり、本当は看護師を希望していましたが、一定の経験が足りておらず看護師での申請ができませんでした。翌年であれば看護師として申込ができましたが、早く日本に行きたかったのですぐに申請ができる「介護士」を選びました。

EPA制度への申込後、インタビューや筆記試験、健康診断など様々な審査がありました。その後、受け入れ先とのマッチング。いまは受け入れ先の担当者と直接お会いし審査をしていくのですが、その当時は履歴書と写真だけでした。わたし以外の人たちは早々と結果が出ていましたが、わたしはなかなか連絡がなく不安でした。諦めかけていましたが、夕方に連絡があり、日本への派遣が決まりました。

「自分で決める強さを持て!」と母親からのメッセージ

日本への派遣が決まったとき、嬉しかったですね。正直不安もありましたが、1人ではなく2人以上の派遣と決まっていたので不安よりも楽しみが勝っていました。悩みを相談し合ったり、辛いときは助け合ったりできると。でも出国当日に「一緒に行く人がキャンセルになりました。」と急に言われ、日本に行くのが怖くなりました。それは当然ですよね。

搭乗ゲートの前で「1人になってしまったけど、どうする?」と選択を迫られました。一瞬キャンセルすることがよぎりましたが、家族や友人に日本で働くことを伝えていたので、いまさら辞めるわけにはいきません。お母さんに電話し状況を伝えたら「自分の判断でどうするかを決めなさい。もし辞めるのだったら迎えに行くから。」と。わたしは「行きます。頑張ります。」と決意を固め、日本に飛び立ちました。

研修のストレス?!ごはんが美味しくて体重が+20kg・・

ドキドキとワクワクを携えて日本に降り立ちました。成田空港を経由し伊丹空港に。長い道のりだったことを覚えています。そこから半年程度の研修。日本語が全く喋れない状況からのスタートだったので、勉強は大変でした。文法や単語、ひらがなや漢字…と1つひとつ丁寧に覚えていきました。

言葉だけでなく介護技術も学びました。オムツ介助や食事介助、更衣介助や入浴介助…。インドネシアではお風呂に入る習慣がないのでカルチャーショックでしたが、「介助のなかで一番危険が潜んでいるよ。」と先生からの指導があり、気持ちが引き締まったのを覚えています。食事が美味しくご飯をたくさん食べてしまい、研修が終わる頃には20kgくらい太ってしまいました(笑)。

つらさのどん底にいた私を救ってくれたのは、母からの激励の言葉

あそか苑に入職して10年、早かったです。「介護福祉士に合格するまでインドネシアに帰らない!!!」と強い意志を持ち、受験資格を満たすまでの3年間は弱音を吐かずに働きました。この間、辛い時期がたくさんありました。最初の1年は特に大変でした。日本の生活に慣れていない・友達もいない・日本語も上手く喋れない、日本語が話せなかったら仕事も生活も思うようにはいきません。困っていることを言葉にできないし、まわりは何を喋っているのか分からないし、毎日泣いていました。毎晩お母さんに電話しました。「お母さん、帰りたいよ。」私の言葉に対し、「自分で決めたことだから乗り越えてね。応援しているよ。一人じゃないよ。」と激励の言葉を贈ってくれました。

まわりの人の優しさに触れ、楽しさが増えていった

2年目以降、日本語が少しずつ分かるようになったり、和食が食べられるようになったりし、日本での生活に馴染んできました。一番大きかったのは、仲の良い友達ができたことですね。誕生日会を開催してくれたり、花火大会を一緒に観に行ったりと、心から楽しいと思える間が増えました。

楽しさが増した2年目を終えて迎えた介護福祉士試験。結果は不合格でした。悔しかったのですが、気持ちをすぐに切り替え、勉強をスタートしました。このとき保田さんや小田垣さん、田村さんと色んな職員が勉強を教えてくれたおかげで翌年合格しました。その後インドネシアに帰国した際、お母さんが「合格おめでとう、良かったね!」と直接伝えてくれたのは何よりも嬉しいお祝いでした。

正職員になってはじめて、行動1つひとつに責任がうまれた

介護福祉士を取得してからパート職員から正職員に変わり、自分の中で「責任」を意識するようになりました。合格前は仕事よりも勉強がメインなので責任はあまり感じませんでしたが、合格後はモニタリング業務が増え、利用者だけでなく家族や関係機関との関係が深くなりました。またパート職員のときは分からないことがあれば職員に聞いていたけど、正職員になってからは「このときどうしたらいいの?」とパート職員の方々に聞かれることが多くなり、行動1つひとつに責任が伴うようになりました。いままでとは逆の立場ですね。

日常の中に散らばる喜びに出合えるのが、介護の良さ

あそか苑での生活は、楽しい。だから10年も働き続けているのだと思います。あと伊丹が住みやすいのも理由の1つです。田舎でもなく都会でもない。寒くもなく暑くもない。大阪や神戸からちょうど良い距離。その丁度よさがインドネシアに似ています(笑)。

仕事で様々な経験ができているのも大きな理由です。利用者からの「ありがとう」の言葉。「私たち以上にお世話してくれた。本当にありがとう。」の家族からの言葉。日常のなかに不意にこういう瞬間があるのが介護の良さです。また生死を考えるきっかけにもなり得ることも介護の良さかもしれません。長年関わっていた利用者が亡くなったとき、死を意識します。「わたしもいつか死んでしまうんだ。」と。だからこそ、精一杯生きようと思えるのかもしれません。

ママの働く姿を子どもに見せたい。そんな夢を早く叶えたい

パートナーと生活をともにすることになり、生活がさらに楽しくなりました。長い間、1人で生活していたのでモヤモヤは溜まりっぱなしでしたが、2人になったからこそ支え合い、ストレスも少なくなりました。不安や悩みは何でも聞き、「大丈夫だよ。」と優しく声を掛けてくれます。彼、寡黙なんです。わたしは喋るのが好きで一方的に喋ってしまうけど、彼は嫌な顔をせずに聞いてくれます。

昨年3月に子供が産まれました。でも、いまは会えなくて寂しいです。わたしは日本で旦那と一緒に暮らし、子どもは私の母親と一緒にインドネシアで生活しています。いま子どもが日本に来る手続きをしています。もし子どもと一緒に生活できたら、今まで以上に仕事を頑張ります。「ママ、こんなに頑張っているよ。」「ママ、こんな仕事をしているよ。」と働く姿を見せていきたいです。